
写メ日記
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2024年10月10日 02:05 の投稿
日記を更新する理由は何だろうか。多くの人にとっては集客のためかもしれない。しかし僕はもう少し先のことを見据えている。実際に会ってからの時間こそ重要なのだ。
大切なのはミスマッチを避けること。魅力的な言葉だけを並べるのは賢明かもしれないが、それで会った時に違和感が生じてしまっては満足を得ることは難しい。テクを売りにしているのに実際は下手だったり、優しさアピールしているのにそうでなかったら、失望を招くことになるだろう。
僕は「なんだこのひねくれ者は!」「こういう拗らせてる人は無理!」「コイツめんどくさそう!」って思われるような日記を狙って書いている。それでいいと思っている。日記とは会う前に「合うか」「合わないか」を判断する為の材料であるべきだ。そして、どうやったって100人中100人に好かれるなんて不可能なのである。ならば「この人とは合わない」と思われることこそ写メ日記本来の存在理由であり、もっとも目的に沿った運用方法ではないだろうか。
僕だって、当たり障りのない日記を書こうと思えば書けるのだ。…たぶんね。無難な日記なら読む人に「コイツ合わないな」と思われることもないだろう。でもそれは裏を返せば「この人とは合うかも」と思われることもない。何の印象にも残らなければ、それはすなわちスタート地点にすら立てていないということだと思う。
つまり何が言いたいのか。僕に興味を持ってくれている「貴女」は、とても貴重な存在だと言うこと。「貴女」が思っているよりも、「貴女以外の女性」は僕に興味が無いのだ。
世の中の多くの人は「当たり障りが無く」「ありきたり」であることに寛容である。僕に興味がある「貴女」はそのことに対して退屈を感じる価値観なのかもしれない。似たり寄ったりで印象に残らないなぁって思っているから、僕に興味を持ったのではないだろうか。
だいたいの人は根拠のない綺麗事であっても、言葉をそのまま受け取ることに抵抗がないのである。僕に興味がある「貴女」はとても慎重で、言葉の信憑性をよく考える人なのかもしれない。癒しますって具体的に何をするの?何をもってしてオススメと言うのだろう?説得力のない言葉を鵜呑みにしないから、僕の文章に惹かれたのではないだろうか。
そういう感性を持った人に刺され!って思いながら、かなり打算的に日記を書いている。「合わない人」は会うまでもなく、この日記の時点で「合わない」と感じているはずなのだ。逆に言えば日記を読んで僕に興味を持ってくれたのであれば、「僕」と「貴女」はきっと相性が良い。
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2024年10月9日 02:05 の投稿
ありがたいことに文章力を褒めてもらうことが多い。僕は本を読まないし、国語の成績が特別良かったわけでもないので、自分でも不思議だ。だが子供の頃から、「考えを文章化する」というプロセスを大切にしていたから、そのおかげかもしれない。僕はいつだって頭の中で何かしらの文章を紡いでいる。その感覚は当たり前で、僕以外の人もそうなのだと思っていたけれど、実はそうではないのかもしれない。
そうなるきっかけは、僕が小学生高学年の時だっただろうか。「もったいない」という日本語が世界的に知られるようになった。持続可能な消費や環境への配慮が盛んになり、エコ活動の象徴としてこの言葉が使われるようになった。「もったいない」という概念は日本独自のものであり、直接的に同じ意味を持つ単語は外国語には存在しないらしい。それを知った時、僕は衝撃を受け「言葉」について考えたものだ。
当時の僕は、「では海外の人はもったいないと感じた時にどうするのだろう?」と疑問を抱いた。そして子供なりに考えた末に「もったいないと感じる事がないから、それを表現する単語が存在しないのだろう」という結論に至った。
この時、子供ながらに言葉=概念だと解釈した。そして腑に落ちる感覚と共に、一抹の不安を覚えた。
当時の僕は同世代の人達の会話にうまく馴染めないでいた。同じ時代、同じ地域に生まれながら、付き纏う疎外感はさながらカルチャーショックのようだった。昨日の出来事を、面白かったつまらなかった、そんな短い単語だけで会話を楽しめる人を訝しんでいた。あげくに良い場合も悪い場合も「ヤバイ」という一言で表現するようになり、僕は違う星に迷い込んだかのような居心地の悪さに苛まれることとなった。
僕にとって「思考」とは「頭の中で言葉を紡ぐこと」であり、そして「言葉」は「概念」である。ならば語彙力が低く、文章力に乏しい人の頭の中はどうなっているのだろう。僕の想像では、文章力と思考力はほぼイコールだと思っていた。どんな物事に対しても「ヤバイ」としか言わない人は、「ヤバイ」とだけ感じて「ヤバイ」とだけ頭の中で考えて「ヤバイ」とだけ発言しているのか?それはあまりに不可解で、まるで自分とは違う生き物のように思えて不気味だったのだ。
そんな現実にリアリティを感じられず、自分の事すらもどこか他人事のように俯瞰している10代だった。まるでこの世はオンラインゲームで、言動を自分の意思で操作できるプレイヤーキャラクターと、プログラムに従って自動的に操作されるノンプレイヤーキャラクターがいるかのようだった。そうして、僕は他人への興味を失ったのだ。
やがて大人になり社会人を経験して、気が付けば僕も他愛のない会話を嗜む様になってしまった。相変わらず脳内では思考を繰り返し無限に文章を紡いでいたが、それを口に出す機会はなく、その時になってやっと理解した。人は頭の中で考えていることの全てを言葉にするわけではない。当たり前のことだが、気付くまでに随分と時間がかかってしまった。
思考の一部分しか文章化しないのは状況や相手を考慮してのことなのかもしれない。あるいは思う事があっても、それを文章化するのが苦手なのかもしれない。いずれにせよ僕は、他人の文章化されない思考の部分をもっと知りたいと思うようになった。
今まで人に興味が無かったからこそ、今は人への興味が非常に強い。普通の人が10年20年かけて興味を持って理解してきたことを、今更ながら興味を持ち始めたわけだから当然だ。他愛のない会話の中から「この人をより深く知るためにはこの話題を掘り下げてみよう」と考えながら話すのは楽しいと感じる。昔は嫌いだった薄っぺらい天気の話も、今では普通にできるようになった。人の営みというものはそういうものなのだと、少し理解できるようになってきた気がする。
他人に興味を持たない生き方も嫌いではなかった。でも自分には無い思考や発想に触れるのはとても面白い。それを知らないままでいるのは、もったいないと思うようになったのさ。
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2024年10月5日 20:05 の投稿
どうせエビを食べたらプリプリって言うんだろう?チャーハンを食べたらパラパラって言うし。ハンバーグを食べたら肉汁が~って言うに決まってる!
それは世間の最大公約数的な意見のトレスに過ぎない。そこに自らの価値観は反映されているのか?果物や野菜の美味しさを語る時に、まるで決め事のように「甘い」と表現しやがる。でも本当に「甘いこと」が「美味しいこと」なのかよぉ!?
果物の持つ本来の酸味が!その野菜特有の苦味にこそ!真実の「美味しさ」があるのではないだろうか。「甘いこと」が「美味しいこと」だと言うなら、隅っこで砂糖でも舐めてなさいよ!
肉の品質を語る時、揃いも揃って柔らかさをアピールしちゃってさぁ!?簡単に噛み切れるって。豚の角煮を食べれば、ほろほろって言うのは分り切っている!二言目にはお箸でも切れちゃうって、もう何回聞いたことか。そんな表現は聞き飽きた。肉は柔らかければ柔らかいほど良いってのか?僕は少し噛み応えのある肉の方が好きなのだ!
冷めた唐揚げが!しなしなのポテトが!!しっとりしたチャーハンが好きだ!!!昨晩食べきれずに放置していたチーズの固まったピザをハサミで切って食べることに憧れるのがそんなに変なことかよぉ!?
人は僕の事をひねくれ者と言う。僕もそれを認めよう。では「ひねくれる」とは何か?僕は「思考を止めない事」だと思っている。良いように解釈しすぎか?だとしても!!思考を停止することへの反発であり、人の意見に流されることへの抵抗だ!
画一的に似たような意見に収束するのを否定したわけじゃない。そこに至るまでのプロセスとして、自らの価値観で考えたのであれば、それは尊重すべき意見だと思っている。
僕は逆張りをしがちではあるが、ただマイノリティを気取りたいわけじゃない。大谷選手を応援しているし、サッカーの代表戦も時間が合えば見る。SNSで話題のスイーツを食べたがるし、連載の時はそうでもなかったくせにアニメ化してから鬼滅の刃を評価する。そういう一面もある。ミーハーを毛嫌いし、ただ反対意見を言うだけの人とは違うのだよ。
「自分の考えを、自分の言葉で」今まで特に意識していなかったけど、僕はこの思いが強いのかもしれない。指名してくれた女性とお会いしている時はもちろんのことながら、それ以外の時でもわりとこの仕事を楽しめてる。それはこうして自分の価値観を発信することが嫌いではないからなのだろう。
ちなみにEggs 'n Thingsの「和モンブランパンケーキ」を食べた僕は「ふわっふわで甘くて美味しい~」って思いました。…実際にはそんなもんよ。
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2024年10月5日 02:05 の投稿
己の機嫌によって他者への態度を変える人がいる。そうした人との関係は、まるで嵐の中にいるようだ。不機嫌という風が吹けば、ささいなことでも怒りの波が立ち、避けようとしても巻き込まれてしまう。そんな荒波の中で相手の顔色を伺いながら付き合うのは、実に疲労を伴うものだ。
多くの人がこのような関係に辟易し、「優しさ」や「穏やかさ」という安らぎを求めるのは無理もないことだろう。僕もそういった価値観に概ね賛同する者の一人だ。しかし、だからといって「決して怒らない人」が「良い人」と言えるだろうか?もちろん苛立ちを理由に無関係な人にまでその怒りをぶつけるのは非難されるべき行為だ。物に当たることなどもってのほかである。
だが、もし苛立ちの源が相手の言動にあるのであれば。それを伝えることは必ずしも悪ではない。もちろん、その伝え方が問題である場合もあるだろうが。もし常にどんな場面でも「怒らない」ことが「優しさ」や「穏やかさ」とするならば、僕はそれを受け入れない。無礼や非常識に対しては、毅然とした態度を貫きたい。僕は「怒るべき時には怒る人」でありたいと願うのだ。
ゆえに僕は「優しさ」や「穏やかさ」をことさらアピールするつもりはない。だからこそむしろあえて逆に、僕の怒りが爆発する瞬間を教えてやる!
「リッターがヤグラに乗ってくれない時」これはスプラトゥーン3というゲームの話だ。多くの人には馴染みがないかもしれないが、スプラプレイヤーの中には今これを読んで激しく共感し頷いている者もいることだろう。
スプラトゥーンは、水鉄砲やローラー、バケツなど個性豊かなブキを使ってインクで地面を塗り合いながら戦う4対4のオンラインシューティングゲームである。いくつかのルールがあるが、僕が好んでプレイする「ガチヤグラ」は、ステージ中央にあるヤグラを相手陣地のゴールまで運ぶというルールで、シンプルながら奥深い戦略性が要求される。
ヤグラは一人でも乗っていれば自動的にゴールに向かって進むが、当然敵チームはそれを阻止しようとする。そのため射程の長いブキがヤグラに乗り、射程の短いブキは前線に出て敵を抑えるのがセオリーとなっている。そしてリッターはゲーム内で最も射程が長いスナイパーライフルのようなブキであるため、その役割はヤグラに乗ることに他ならない。
しかし頑なにヤグラに乗らないリッターが多いのだ。敵を倒し前線を押し上げて数的優位を築いているにもかかわらず、リッターが安全な場所に引き籠っているせいでヤグラが進まない。このような状況に直面すると、僕は内なる叫びを抑えきれなくなるのだ。キエェ~!ってなる。
僕は塩対応などしたことがないし、これからもそうするつもりはない。しかしもし貴女が自らのデス数ばかりを気にして、安全圏から動こうとしない「ヤグラに乗らないリッター使い」だとしたら。その時初めて僕は塩対応をするかもしれない。僕は「怒るべき時には怒る人」でありたいのだ。お願いだからどうか早くヤグラに乗って?
スプラをしている時以外の僕は、基本的には温厚だよ。たぶんね。
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2024年10月4日 00:05 の投稿
口コミも日記も半年で消えてしまうんだよね。今確認したら口コミ66件(いつもありがとう)に対して日記が49件しかない!口コミが月に約11件ペースなので、追いつくにはそれ以上書く必要がある。ということで、とりあえず10月は日記を12件更新できるように頑張ろう。この目標を3日に書いてる時点で、計画性無さ過ぎてもうダメっぽいけど。いざとなったらスイーツ写真でお茶を濁そう。スイーツ食べる時は紅茶ではなく珈琲派だけど。
さて。僕は本をたくさん読んでそうってわりと言われる。でも実は活字が苦手なんだ。読書はほとんどしない。人生通してちゃんと最後まで読んだのはライトノベルの「マリア様がみてる」だけ。マリみては全巻読んだし、スピンオフの「お釈迦様もみてる」も読んだ。漫画版はもちろん、コンプリートブルーレイボックスも持ってる。マリみてで百合作品にハマって一時期は色々読んでたけど、結局マリみてが入口にして到達点だったね。マリみての魅力について語りたいが長くなるので今回は自重しよう。
今にして思えば、百合好きの素質は子供の頃からあったように思う。周りの男子がみんなドラゴンボールにハマっている時、僕はセーラームーンにハマっていた。最初はセーラージュピターを推していたが、やがてセーラーウラヌスとセーラーネプチューンが好きになった。当時はまだこういう言い回しはなかったが、いわゆる「尊いぃ~!!」って思って観ていた。
あと昭和の女子プロレスも良質な百合である。ネットフリックスで極悪女王が配信されて話題になってるね。クラッシュギャルズも良いけど、ビューティーペアも好きだな。「駆け巡る青春」って知ってる?超ドシンプルなボックスを踏むだけの振り付けと、なんとも言えない「やらされ感」が最高。タッグパートナーとして一緒に活動していたのに、最後は引退をかけて二人で戦うのよ…。たまらんよね。でも一番好きなのはクラッシュvs極悪同盟の少し後、ブル中野とアジャコングの抗争。「泣くなバイソン!!」はマジで名シーン。
こんな感じで昭和プロレスの話は延々と語れちゃう。だから酔ってる時の僕にプロレスの話は振っちゃダメだよ。マッハ文朱の話、興味無いでしょ?…当然だけどリアルタイム世代じゃないからね!?
子供の頃こういう趣味だったから、その影響なのかな。今でも女性的な感性はちょっとあるのかもしれない。そして男の人が実はちょっと苦手だったりする。いや、逆か。男性が苦手だから、百合が好きになったのかな?
厳密に言うと、男の人に触られたり、男の人の裸を見るのが好きじゃない。見られるのも抵抗がある。普通に話すのは平気。美容室くらいなら男性スタッフでも大丈夫。
幼稚園児の時からその感覚はあった。プールの時間に着替える際、裸を見られないようにタオルにくるまって端っこで着替えてた。そういえば修学旅行の風呂とかどうしたっけ。ちょっと記憶にないや。
男子中学生特有の「うぇ~い!」とか言って股間をタッチするノリ、本当に大嫌いだった。あと男の芸人同士でチューするくだり、アレも嫌。ダブルセラピもカップルコースも僕には無理だな。
断じて言っておくが、同性愛に偏見があるから苦手だと言っているわけじゃない。むしろ逆で、理解あるからこそ同性愛を茶化すようなノリはどうなのよって感じる。あ、でも昨今の洋画によくあるポリコレ意識して無意味に同性愛要素を入れるのは嫌い。
脱毛を検討したこともあるけれど、スタッフが男性だとちょっと無理かも。でもそう思っているのは少数派で、むしろ女性スタッフだと恥ずかしくて抵抗があるって人が多いみたいだね。「スタッフは全員男性だから安心!」というのを売りにしているお店もけっこう多い。女性スタッフに見られたり触られたりするのが恥ずかしいのは理解できる。でもだからといって男性スタッフなら安心とはならんやろって思っちゃう。
僕は装甲騎兵ボトムズとか好きだし、戦車模型とか作るし、男臭いオタク趣味を持っている。その一方で百合好きだし、少女漫画も読むし、乙女チックな部分もある。どちらかに偏ることなく、ほどほどのバランス感覚を持った人でありたい。
ちなみに僕はよく「○○なのよね」って言い回しをするが、これは機動戦士ガンダムの総監督である富野由悠季氏がよく使う口調でその影響。スレッガー中尉という男キャラの「悲しいけどこれ戦争なのよね…」が有名だね。だから別にオネエ口調とかではないのよ。嘘じゃないわよ、おほほ。